2005年 04月 11日
自由と愛撫(草稿1)
頭蓋骨のどこかから来る痛みは、約二秒で消えて不快感をおれに植えつけた。
日銀の景気判断は一家庭の経済に直結しないからどうでもいい。
第三世代携帯電話の次は第四世代だが、もう進化しなくても間に合っている。
等差数列の意味を知らないが生きていけるように、携帯電話の仕組みも、景気と雇用の関係もフィーリングで問題ない。お金さえあれば生きていけるという都会の有難みについて考えてみる。社会からつまはじきの同性愛者。狭い会社なら差別の対象。古い家族でも同様。寛容な社会は実は先進的ではなく、根底には現実の理解が普通にあるというだけだ。
頭の痛みはどこかへ消えた。もったいぶった文章を打っているとこういう効用もあるという一例だ。
食事してセックスなんてありきたりなようでイヤだったの。と、言い訳するテスト。貧乏だったというのが本音だ。きみは看板を見てハンバーグが食べたいと言った。また後頭部の一部が痛くなる。今度はズキズキする。そして、心拍に合わせる律動する痛みだ。
きみについてぼそぼそと考えるが、そればかりを整理してここには記さないこととする。大きく息を吐く。もう一度。三回目のそれでおれは少し落ち着く。
月曜日のハローワークの忙しさならば知っているから行く気がしない。きみにはおれが無職だとは言ってない。少しサドになって、そのことをきみに伝えて反応を試したい気もする。それでもお兄ちゃんと慕ってくれるかい? 疑問だ。温かい抱き枕を手放したいかい?
朝食はサンドウィッチで、ツナは食パンにはさまれて、きゅうりとトマトとレタスのサンドが黒糖パンにはさんであって噛むと黒糖の甘みがした。それから2時間半経っている。
静かに周りの時間が過ぎている。この文はおれにとってのリハビリのようなものだ。
元々の職業が作家という人ではないのに、リハビリだって?! くるっているねおれは。
でも昨夜二ヶ月ぶりに話した知人は、おれには絵も描けて文章も書けるから羨ましいと言った。そんな馬鹿な。ただ思いつくままに文にしているだけだ。絵なんて、あれを絵と呼ぶのなら、路上のアーチストたちはいつでもプロフェッショナルと呼ばせてもらうよ。
しかしリハビリと言っても悪い気はしない。
少し温くなったやや薄味の珈琲を口にして、おれは窓の外の小鳥がちゅんちゅんと啼くのを聞いた。路線バスが通り過ぎる排気音も、それから数軒先の工事のドリルの掘削音も。
おれのPCは壁際から3、40センチはなれて置いてある。椅子と窓とが60センチくらいの距離だから、針金入りの窓には少し日が差す。
今日は少し薄く雲が掛かっている。昨日は昼過ぎから降っていた。
日が落ちる前にきみからメールが来た。これから迎えにいくと。おれは洗濯と退屈の日曜日を過ごし、ようやく一週間ぶりにきみに逢えた。
徳山まで行こうとは8年前には思わなかった。今でも考えにはない。
じぶんのことを「おれ」と書くことに抵抗が。やっぱりそう感じたのならぼくと書くべきだろう。
ぼくはあいしてくれていたあの人はいまはもうすっかり歳を取っているのだろうなと思う。
きみに逢っているときには、冷静ではなくなっているからいままでおれが付き合ってきた人のことは思い出さない。そして、きみをなくしたくないから、他の人に逢わずにずっときみだけと付き合いたいなと願う。しかし、これまでのおれの行動パターンを考えてみろ。無理だ。
だから、付き合いと遊びとは別物でしょう? という考え方が出てくる。恋愛と浮気という枠の違い。それは何ですか。やってることは同じだろう。その線引きが人によって違うから、問題は起きる。ならば、きみに最初に浮気の定義を宣言して、彼公認で外でエッチしたいわけ? そうかも。でも、そうではないかもしれない。
落としどころのわからない思考の迷路に嵌った。脱出道具をください。それは永遠の愛。きみがぼくを無茶苦茶に愛しているとわかった。けど、ぼくはそれに応えることが少しこわいんだ。シーソーに二人のお互いへの想いを乗せれば、いつかぼくの方が飛ばされそうで不安なのだ。おびえるあまりに他の男と寝ることが、きみの愛をあっさりゼロに変えることを、ぼくは自覚しようね。
日銀の景気判断は一家庭の経済に直結しないからどうでもいい。
第三世代携帯電話の次は第四世代だが、もう進化しなくても間に合っている。
等差数列の意味を知らないが生きていけるように、携帯電話の仕組みも、景気と雇用の関係もフィーリングで問題ない。お金さえあれば生きていけるという都会の有難みについて考えてみる。社会からつまはじきの同性愛者。狭い会社なら差別の対象。古い家族でも同様。寛容な社会は実は先進的ではなく、根底には現実の理解が普通にあるというだけだ。
頭の痛みはどこかへ消えた。もったいぶった文章を打っているとこういう効用もあるという一例だ。
食事してセックスなんてありきたりなようでイヤだったの。と、言い訳するテスト。貧乏だったというのが本音だ。きみは看板を見てハンバーグが食べたいと言った。また後頭部の一部が痛くなる。今度はズキズキする。そして、心拍に合わせる律動する痛みだ。
きみについてぼそぼそと考えるが、そればかりを整理してここには記さないこととする。大きく息を吐く。もう一度。三回目のそれでおれは少し落ち着く。
月曜日のハローワークの忙しさならば知っているから行く気がしない。きみにはおれが無職だとは言ってない。少しサドになって、そのことをきみに伝えて反応を試したい気もする。それでもお兄ちゃんと慕ってくれるかい? 疑問だ。温かい抱き枕を手放したいかい?
朝食はサンドウィッチで、ツナは食パンにはさまれて、きゅうりとトマトとレタスのサンドが黒糖パンにはさんであって噛むと黒糖の甘みがした。それから2時間半経っている。
静かに周りの時間が過ぎている。この文はおれにとってのリハビリのようなものだ。
元々の職業が作家という人ではないのに、リハビリだって?! くるっているねおれは。
でも昨夜二ヶ月ぶりに話した知人は、おれには絵も描けて文章も書けるから羨ましいと言った。そんな馬鹿な。ただ思いつくままに文にしているだけだ。絵なんて、あれを絵と呼ぶのなら、路上のアーチストたちはいつでもプロフェッショナルと呼ばせてもらうよ。
しかしリハビリと言っても悪い気はしない。
少し温くなったやや薄味の珈琲を口にして、おれは窓の外の小鳥がちゅんちゅんと啼くのを聞いた。路線バスが通り過ぎる排気音も、それから数軒先の工事のドリルの掘削音も。
おれのPCは壁際から3、40センチはなれて置いてある。椅子と窓とが60センチくらいの距離だから、針金入りの窓には少し日が差す。
今日は少し薄く雲が掛かっている。昨日は昼過ぎから降っていた。
日が落ちる前にきみからメールが来た。これから迎えにいくと。おれは洗濯と退屈の日曜日を過ごし、ようやく一週間ぶりにきみに逢えた。
徳山まで行こうとは8年前には思わなかった。今でも考えにはない。
じぶんのことを「おれ」と書くことに抵抗が。やっぱりそう感じたのならぼくと書くべきだろう。
ぼくはあいしてくれていたあの人はいまはもうすっかり歳を取っているのだろうなと思う。
きみに逢っているときには、冷静ではなくなっているからいままでおれが付き合ってきた人のことは思い出さない。そして、きみをなくしたくないから、他の人に逢わずにずっときみだけと付き合いたいなと願う。しかし、これまでのおれの行動パターンを考えてみろ。無理だ。
だから、付き合いと遊びとは別物でしょう? という考え方が出てくる。恋愛と浮気という枠の違い。それは何ですか。やってることは同じだろう。その線引きが人によって違うから、問題は起きる。ならば、きみに最初に浮気の定義を宣言して、彼公認で外でエッチしたいわけ? そうかも。でも、そうではないかもしれない。
落としどころのわからない思考の迷路に嵌った。脱出道具をください。それは永遠の愛。きみがぼくを無茶苦茶に愛しているとわかった。けど、ぼくはそれに応えることが少しこわいんだ。シーソーに二人のお互いへの想いを乗せれば、いつかぼくの方が飛ばされそうで不安なのだ。おびえるあまりに他の男と寝ることが、きみの愛をあっさりゼロに変えることを、ぼくは自覚しようね。
by derikayuki
| 2005-04-11 11:43